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郷土を愛した歌人
斎藤茂吉
明治十五年、上山市金瓶に生まれた斎藤茂吉は医師・歌人として大成した後も、故郷の自然を生涯忘れず、多くの秀歌を残しています。
蔵王を望むみゆき公園内には茂吉の業績をたたえ記念館が設立され、年間を通して多くの茂吉ファンが訪れています。 |
故郷をこよなく愛した歌人
作家の安東次男は、芸術の本質を「帰巣する」ことにあると主張しました。帰巣とは、巣に帰ること、すなわち自分の住処へ帰ることです。近代短歌史上大きな足跡を残した斎藤茂吉も、「帰巣する芸術家」の一人と言えるでしょう。茂吉は生涯、繰り返し故郷の山河や人を歌い続けました。故郷は茂吉にとって「生涯を貫く文学思想の骨格」(真壁仁)とも言えるものですが、その根底には故郷に対する、変わることのない思慕の念がありました。
足乳根の母に連れられ川越えし田こえしこともありにけむもの
たましひを育みますと聳えたつ蔵王のやまの朝雪げむり
万国の人来り見よ雲はるる蔵王の山のその全けきを
斎藤茂吉は、明治15(1882)年、金瓶村(現上山市金瓶)の守谷伝右衛門、いく夫妻の三男として生まれました。その才能にいち早く気づき、茂吉を導いたのは守谷家の菩提寺・宝泉寺の佐原蔭応和尚です。茂吉は和尚から『日本外史』等の歴史書や中林梧竹流の書、宗教について学びますが、この時代の影響は成長してからも茂吉の心に深く残りました。(『赤光』所収の「赤き華あかき光を」の歌は、小さい頃宝泉寺で見た「地獄極楽図」を詠んだものだと言われています。)
茂吉に転機が訪れたのは、14歳の夏。同郷の医師斎藤紀一を頼って上京し、茂吉は後に斎藤家の婿養子となります。やがて養父紀一の跡を継ぎ、帝国脳病院の院長に就任します。
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| しっとりと郷愁に染められる時| |
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| 茂吉大石田にて(昭和22年) 佐々木勇氏撮影 |
茂吉愛用の筆記具など |
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| ホール |
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| 常設展示室 |
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茂吉は、その一方で正岡子規などの詩文にふれ、文学に開眼します。なかでも茂吉の名声を高からしめたのは、歌集『赤光』の出版でした。茂吉は亡くなった生母いくを詠んだ連作歌を発表し、近代短歌史に新たな一頁を開きます。天才的歌人斎藤茂吉の誕生が、故郷の生母を詠んだ短歌とともにあったというのは象徴的と言えるでしょう。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
茂吉の故郷を慕う気持ちは、三十回に及ぶ帰郷の数がよく語っていますが、再びこの地に長く滞在したのは戦中から戦後にかけてでした。この間、故郷金瓶のほか、最上川のほとりの大石田町に住まいし、敗戦による深い悲しみと孤独感に耐えて、多くの傑作を生み出しました。なかでも「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」は最上川を詠んだ古来の歌の中でも絶唱と言えましょう。この歌を含む、帰郷時のことを多く歌った歌集『白き山』は、茂吉の歌集のなかでも代表作に数えられています。
故郷の山河と茂吉の歌は、生涯を通して、深く深く結びついていたのです。
上山市弁天のみゆき公園内には、斎藤茂吉記念館がひっそりとたたずんでいます。茂吉は疎開中にここから蔵王を眺め、歌を詠み、思索に耽ったとされています。
茂吉記念館の館内には自筆の原稿や色紙、短冊、手紙などの書籍類のほか、茂吉と交友のあった長塚節や伊藤左千夫など文人の手紙や原稿も多く収められ、近代文化史を知る上での貴重な資料が展示されています。また茂吉追慕全国大会や、歌会や研究会も行われており、記念館には茂吉を慕う多くのファンが全国から訪れています。 1995年3月、上山市とドイツ連邦共和国のドナウエッシンゲン市との間で、友好都市の盟約が交わされました。ド市は、斎藤茂吉が留学中の大正13年に故郷の山の風景を求めて訪ねたドナウ河源流の都市です。両市ではこの締結を契機に、市民同士の盛んな交流が行われるようになりました。
これも故郷をこよなく愛した茂吉の遺産の一つといえましょう。
The Master Poet Mokichi Saito
Leaving us numerous excellent poems, Mokichi Saito, born in 1882 in Kanakame
in Kaminoyama , never forgot the people and natural surroundings of his
lifelong hometown, even after achieving success as a doctor and a poet.
To Mokichi, his hometown was, according to Makabe Jin, "the framework
of the literary thought that ran throughout his life. "
A Memorial Museum extolling his accomplishments has been built in Miyuki
Park overlooking Mt. Zao. Containing manuscripts and letters in his own
hand, the Museum also holds poetry readings and a National Mokichi Memorial
Tournament and is busy year-round with Mokichi fans. |
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茂吉と出羽ヶ嶽文治郎
出羽ヶ嶽文治郎は大正から昭和初期にかけて活躍した上山市出身の巨漢力士で、関脇で活躍した頃には身長204センチ、体重180キロはあったと言われています。”文ちゃん”の愛称で当時の大相撲人気を支えていました。(現在、市役所庁舎内に等身大の出羽ヶ獄の像が設置されています。)
茂吉の養父でもある青山脳病院院長斎藤紀一は出羽ヶ獄を自宅に住まわせ、身の回りの世話を行いました。右は斎藤紀一と並んだ出羽ヶ嶽です。茂吉もまた義兄弟のように絆を深くし最後まで親身になって世話をしてくれました。同郷者としての意識がお互いの心に深く生き続けていたのでしよう。
Mokichi and Dewagatake Bunjiro
Dewagatake Bunjiro was a giant sumo wrestler who, raised by Mokichi's
adoptive father, Saito Kiichi , was deeply attached to Mokichi and looked
after him like a brother with tender care until the end |
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| 斎藤紀一と出羽ヶ嶽 |
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